仙台営業所について

仙台市で目にした光景

取引先から「東北の仕事をしないか」と話があったのは、2011年8月。夜行列車に乗って仙台市の視察にいった。仙台港で目にした光景は、震災後半年が経過しているとはいえ、まさに地獄だった。船が陸に乗り上げ、車はいたるところでひっくり返っていた。「本当にひどい。赤字覚悟でも震災復興の手伝いをしたい。」そんな思いで、2011年9月に仙台市に乗り込んだ。

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職人は、7名。建設資材や車両が不足していることから、北海道からダンプ2台と大型のユンボを持ち込んだ。赤字同然の安い単価での仕事がスタートした。仮設住宅の建設すら進まない中、当然ながらアパートを借りる事すらままならなかった。何とか倉庫風の建物を借りたが、トイレひとつ、お風呂ひとつ、ダニだらけの建物に他社の職人もあわせて30名が暮らした。後からその建物で暮らすこととなった会社だった私達は、仕事が終わってお風呂に入れるのは毎日深夜12時を回っていた。

わずか8坪の馬小屋

損壊家屋解体の仕事として、二件目に着手したのが「わずか8坪の馬小屋」の解体だった。当時、借りていた土場から現場までは、車で一時間半。移動だけで赤字の仕事だった。仕事初日、作業場に到着すると50代の依頼主の奥さんが迎えてくれた。「朝ごはん、食べていないんでしょう」と全員分の朝ごはんを用意してくれた。そして、毎日のように作った手料理を持たせてくれた。全く知らない土地で、そんな人の優しさに触れた。

当時、現場を取り仕切っていた部長の結城は、頭がいっぱいだった。新しい土地で、今後どうやって仕事をしていくのか。どうやって利益をあげるのか。一週間かけて解体した8坪の馬小屋。それに続く土地、400坪。その土地をみて、「お願いです。ここを私たちに土場として貸してくれませんか。」と結城は、深々と頭を下げた。

「いいよ、使いなさい。お金はいらないんだから」

依頼主は、すぐに「いいよ、使いなさい。お金はいらないんだから」とこたえてくれた。それから、2011年12月まで死に物狂いでの仕事は続いた。震災での損壊家屋解体は、一般の解体作業と全く違う。そこに生きていた人たち、そこに住んでいた人たちの「暮らし」がそのまま建物内に存在している。建物内の衣類や家電品、生活用品を仕分けて、それから作業は進む。津波の大きな爪痕を間近でみながら、自分たちの心も津波にのまれてしまわないように、まさに淡々と進めていく仕事だった。

「手伝ってくれないか。」

最後としていた現場が落ち着いた2011年12月、仙台市を撤退しようとしたところ地元業者に「申し訳ない。手伝ってくれないか。」と話を持ちかけられた。そして、2012年1月に仙台市内に事業所を設置。そのまま、仙台市内の損壊家屋解体が収束する2013年3月まで仕事が続いた。

まだ、何も終わっていない。

2013年春、作業は仙台市から石巻市へ。市内の大きな小学校や中学校の解体作業。そして、田代島へ船で渡り、田代島自然教育センターの解体。震災から二年。まだ、何も終わっていない。(写真は、田代島への出発時)

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